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満月の光が、山全体を白く染めた。 番小屋の中で、柊は朧の手を握り続けていた。朧の全身から溢れる青白い光が、壁を、床を、天井を照らしていた。普通の光ではない。月光そのものが、朧の体から漏れ出しているようだった。「朧」 また呼んだ。 光が揺れた。朧が、柊を見た。その目が、いつもの銀色より強く輝いていた。「……聞こえている」「よかった」 柊は握った手に力を込めた。冷たかった。でも朧の手は、柊の手を握り返していた。「力が、大きい」 朧の声が、少しだけ変わっていた。いつもの静かな声に、何かが混じっていた。「抑えられますか」「今は。でも」「でも?」「月が高くなれば、わからない」 柊は朧の顔を見た。表情は変わっていない。でも目の奥に、何かが渦巻いているのが見えた。「私の声が聞こえなくなりそうになったら、言ってください」「言える状態かどうか、わからない」「ならずっと呼びます。聞こえていたら、返事をしてください」「……わかった」 番小屋の外で、風が鳴った。 木々が揺れる音がした。それだけではない。山全体が、何かに反応しているようだった。鳥が飛び立つ気配があった。獣が遠ざかっていく気配があった。 満月の夜に、何かが起きようとしていた。 一刻ほど、それは続いた。 柊が名前を呼ぶたびに、朧は返事をした。光が溢れるたびに、柊の声が軸になって引き戻した。綱引きのような時間だった。 でも月が中天に近づくにつれて、均衡が崩れ始めた。「朧」 返事がなかった。「朧さん」 光が強くなった。壁の木材が軋んで、隙間から光が漏れた。「朧」「……」 朧の目が、柊を見ていなかった
満月の朝は、恐ろしいほど穏やかだった。 空が高く晴れ渡り、山の空気が澄んでいた。鳥の声が遠くから届いて、梅の最後の花びらが風に舞っていた。こんな穏やかな朝が、今夜に続いているとは思えないほどに。 柊は昨夜、番小屋に泊まった。 帰れと言う朧を押し切って、結局一晩中そこにいた。朧は夜半すぎに力が溢れかけたが、柊が名前を呼ぶたびに、その揺らぎが収まった。不思議なことに、確かにそうだった。 夜明け近く、朧は縁側に出て月が沈むのを見ていた。柊は毛布を肩にかけて、隣に座った。二人で、白んでいく空を見ていた。 言葉はなかった。それでよかった。 朝になって、柊は一度家に戻った。朝食の支度をして、親に顔を見せて、それから山に戻るつもりだった。 台所で握り飯を作っていると、母が入ってきた。「柊、顔色が悪いわよ」「眠れなかっただけです」「最近、山に行くことが多いわね」「修行です」 母は柊の顔をしばらく見ていた。柊の母は、父ほど霊力は高くないが、人を見る目は鋭かった。「何かあったら、言いなさい」「はい」「お父さんには言いにくいことでも、お母さんには言えることがあるでしょう」 柊は握り飯を包みながら、母の顔を見た。 言いたかった。全部話してしまいたかった。でも言えば、朧のことが父に知られる。退魔師として、父は動く。そうなれば、朧は討伐対象として追われる。「大丈夫です」 また、その言葉を使った。 山に向かう途中、蒼真に呼び止められた。 家の近くの辻で、待っていたかのように立っていた。「柊」「蒼真さん」「今日も行くのか」「はい」 蒼真は柊の持つ竹籠を見た。それから、柊の目を見た。「昨夜、番小屋に泊まったな」 柊は黙った。
満月の前日、柊は父の書斎に入った。 立ち入り禁止、とは言われていない。ただ、子供の頃から「用がなければ入るな」という空気があって、柊は自然とそこを避けるようになっていた。 でも今は、用がある。 書斎は広かった。壁一面の書棚に、古い文献が並んでいる。退魔師の記録、あやかしの目撃情報、封印の術式。父が長年かけて集めたものだ。 柊は背表紙を一冊ずつ確認しながら、月喰いに関する記述を探した。 居間の書棚にあった黒い本には、封印した一族の名前が書かれていたはずの箇所が滲んでいた。同じ記録が、別の文献にあるかもしれない。 三十分ほど探して、一冊見つけた。 題名は『退魔記録 第七集』。柊家の先祖が書き記した、実際の討伐と封印の記録だった。古い和紙が黄ばんで、墨の文字が所々薄れている。 月喰いの項を開く。 記録は、詳細だった。 今から二百年以上前。山間の村々で、原因不明の災厄が続いた。田畑が枯れ、井戸が干上がり、家畜が死んだ。満月の夜には人が行方不明になった。 退魔師たちが調査に向かったが、原因をつかめなかった。あやかしの仕業とわかっていても、その姿を見た者がいなかった。 最初に目撃したのは、柊家の先祖だった。 ──満月の夜、山の頂に人影を見た。白い着物の男。その瞳は月光を宿し、銀色に輝いていた。男が月を見上げた瞬間、満月が欠けた。月の光を、喰らっていた。 柊は手が震えるのを感じながら、続きを読んだ。 ──我らはこれを月喰いと呼んだ。月の光を糧とし、その力は霊力にも妖力にも属さない。討伐を試みたが、傷ひとつつけられなかった。通常の術式は通じない。封印以外に方法がなかった。 次のページに、封印の記録があった。 ──封印には、多大な代償を要した。柊家当主、柊冬弥。彼は自らの霊力の大半を使い、月喰いを封じた。封印の術式は、柊の血筋が続く限り保たれる。しかし、これは完全な消滅ではない。月喰いの力は月とともにあり、満月のたびに
七日目の朝は、空が重かった。 雲が厚く垂れ込め、山の頂が霞んでいた。雨になるかもしれない、と思いながら、柊は竹籠を抱えて山道を登った。 昨夜は、ほとんど眠れなかった。 黒い本の絵が、瞼の裏に焼き付いていた。月を背に立つ人影。銀色の瞳。月光を宿す者。 まだ確かではない、と自分に言い聞かせた。似ているだけかもしれない。古い絵と、今の朧が同じ存在だとは限らない。 でも、言い聞かせるほど、胸の冷たさは消えなかった。 番小屋の前に着くと、朧はいなかった。 珍しい、と思って戸を開けると、中も空だった。毛布は畳まれている。窓際の木切れの鳥も、そのままある。いなくなったわけではない。 しばらく待つと、山の奥から朧が戻ってきた。「どこへ行っていたんですか」「山の中を歩いていた」「なぜ」「落ち着かなかった」 朧は番小屋に入り、いつもの場所に座った。柊もそれに続く。「落ち着かない、というのは、どういう感覚でしたか」「胸の奥がざわついていた。じっとしていられなかった」 柊は竹籠を開けながら、朧の顔を窺った。昨日より、顔色が白い気がした。正確には、普段から白いのだが、今日はそれが際立っていた。「体の具合は」「わからない」「どこか、おかしい感じはありますか」「おかしい、という基準がわからない」 柊は朧の手を見た。いつもより、指先がわずかに青みを帯びている気がした。「手を見せてください」 差し出された手を取る。冷たかった。朧はいつも体温が低いが、今日はそれ以上だった。「冷たいですね」「そうか」「昨夜から、何か変わったことはありましたか」 朧は少し黙った。「夜半すぎに、力が漏れた」「力が?」「意図せず
六日目の夜、柊は眠れなかった。 布団の中で天井を見つめながら、昨日の朧の言葉を何度も反芻していた。 ──消えてほしくないと思う。お前が。 感情の名前を知らない男が、自分で選んだ言葉。飾りもなく、照れもなく、ただまっすぐに言った。だからこそ、重かった。柊の胸の奥に、静かに沈んでいった。 これは何だろう、と柊は思った。 胸が温かい。でも同時に、少し苦しい。誰かを大切に思うとき、人はこんな気持ちになるのだろうか。 答えが出ないまま、夜が深くなった。 翌朝、山道を登りながら、柊は自分の足元を見ていた。 いつもは朧の顔を見るのが楽しみで、自然と足が速くなる。でも今朝は、少し緊張していた。昨日のことを、どんな顔で会えばいいかわからなくて。 番小屋の前に着くと、朧はいつものように外に出ていた。「おはようございます」「ああ」 朧はいつもと変わらなかった。昨日のことなど何もなかったように、無表情でそこに立っている。 それが、妙に柊を安心させた。「今日も練習をしますか」「食事の後で」「はい」 番小屋に入り、竹籠を開ける。今朝は卵焼きを作ってきた。少し甘めに味付けしたものを。「これは何だ」「卵焼きです。甘いですよ」 朧は一切れ口に入れて、止まった。「……饅頭に似ている」「甘さが?」「口の中が、穏やかになる」 柊は笑った。「それ、すごくいい表現ですね」「おかしいか」「おかしくないです。素直で、きれいな言い方だと思います」 朧は黙ってもう一切れ食べた。柊はその横顔を見ながら、昨夜からの胸のざわめきが、今朝は少し静まっていることに気づいた。 こうして一緒に朝ごはんを食べているだけで、十分
五日目の朝、朧は番小屋の前で待っていた。 柊が山道を登ってくるのを見て、朧は立ち上がりもせず、ただそこに座っていた。でも視線は、柊が木々の間から姿を現した瞬間から、ずっとこちらを向いていた。「おはようございます」「ああ」「外で待っていたんですか。寒くなかったですか」「感じない」「そうでした」 柊は竹籠を抱え直した。今朝は少し重い。昨夜、煮物を多めに作ったのと、父が土産に買ってきた饅頭を二つ、こっそり包んできた。「今日は気配の練習をすると言っていましたね」「食事の後でいい」 番小屋の中に入り、いつものように卓を挟んで向かい合う。朧は今日も几帳面に毛布を畳み、着物の乱れもなかった。「昨夜は?」「月を見ていた」「一晩中?」「そうなる」 柊は饅頭を取り出した。朧の前に置くと、朧は少し目を向けた。「今日は違うものがある」「饅頭です。甘いものは食べたことがありますか」「わからない」「食べてみてください」 朧は饅頭を手に取り、一口かじった。 止まった。 咀嚼が、一瞬遅くなった。「……甘い」「おいしいですか」 少し間があった。「わからない。ただ、もう一口食べたくなる」 柊は笑った。「それがおいしいということです」 朧は黙ってもう一口食べた。その動作が、心なしかいつもより早かった。柊はそれを見て、また笑いそうになるのをこらえた。 感情がわからないと言いながら、朧の体は正直だった。 食事の後、番小屋の前の開けた場所に出た。 朧は柊の前に立ち、少し距離を置いた。「目を閉じろ」「はい」







